2007年1月28日 塩山宗満
ローマの信徒への手紙 2章1-16節
神様の裁きは6-8節「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」と示されています。そして、そこにはユダヤ人かギリシャ人・異邦人かという区別はなく、求められているのは「善を行う」と言うことだけなのです。ちょっと待ってください。パウロの主張する教えは、行いによる義ではなく、信仰による義であって、私たちは信じるだけでよいのではなかったのですか。これから学んでいく、3:21以下に信仰のみ、と記してあることと矛盾するのではないでしょうか。
その点について、パウロは、神が信仰のみによることと、行いの結果による裁きとどちらも求めておられると主張するのです。私たちは良い行いをするように求められても自分がそれを出来ないことをよく知っています。ただ、そのようなわたしでも、イエス様を信じて、キリスト者として歩もうとする者には信仰が与えられ、信仰によって生きる人には愛が与えられ、神様の基準によって生きる道が与えられるのです。そのように生きる場合でもさらに罪を犯してしまうことはあるでしょう。でも、私たちは許された罪人なのです。イエス・キリストは裁き主であると同時に私たちの救い主でもあられますから、このイエス様が、信じるものを神の怒りの日から救い出してくださる、と信じて歩んでいけばよいのではないでしょうか。