2008年1月27日 塩山宗満
ローマの信徒への手紙 6章15-23節
パウロは、当時の人がすぐ理解できる奴隷という言葉を使って語ります。ひとたび主人を持ったら、奴隷はその主人に従うのです。絶対服従で、主人は奴隷の生殺与奪の権利を握っています。同時に二人の主人に仕えることはできないので、一人の主人を選ばなければなりません。そして、パウロはその主人と言うのは、罪に仕えるか、神様に仕えるかだというのです。そして、あなたがたローマの教会のクリスチャンもイエス・キリストに出会うまでは罪の下に気ままな生活を送っていた「罪の奴隷だった」と断じているのです。
神の奴隷、という言葉を皆さんはどのように理解しますか。いくら神様の下であっても、奴隷ということはないだろう、と思いませんか。パウロは他のところでは福音に出会って、自由になる、と繰り返し述べているのですが、ここではあえて「神の奴隷になれ」というのです。それは、徹底的に従いなさい、あの、昔のような怠惰な生活になってはいけません、と言うことを強く言いたかったからではないでしょうか。従うことは私たち人間の側からの努力のように見えますが、そうではなくて、徹底的に神様のほうからの呼びかけと導き、そして、罪からの解放があったからなのです。その結果神様が与えてくださる賜物はなんと「永遠の命」なのです。