2008年2月3日 塩山宗満
ローマの信徒への手紙 7章1-13節
律法とは神様のみ心に適わないものなのでしょうか。パウロはその問いに対して、NO!と言います。律法はめぐみの賜物としてイスラエルの人たちに神様から与えられました。でも、この律法が罪を引き起こす元となってしまったのです。そして、例として「むさぼるな」と言う言葉をもってきます。この戒めは新共同訳では出エジプト記20:17「隣人の家を欲してはならない。」と記されていますが、口語訳では「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。」となっていて、「むさぼり」の出所(でどころ)はここなのです。
神の掟、律法や戒めと同じですが、この掟を知ることによって、私たちは何が罪であるかを知ります。それだけではなくて、実際に罪を犯させ、どんどん罪の深みの陥らせてしまいます。その先で、掟はその罪を裁き、究極的には律法は罪人に対して死を宣告するのです。パウロは「私は死にました」と言います。命を与えてくれるはずの掟が、私を死に導くものであることが分かったというのです。
最後に13節、「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」はこの部分の結論と言えるでしょう。私たちが罪人であることをしっかりと自覚しないと、神様からの救いに入ることは出来ないのです。ですから、律法や掟は、そのことを知らせるという大事な役目を持っているのです。