2008年5月18日 塩山宗満
ヨハネによる福音書 5章1-18節
ベトザタの池には体が不自由な人たちがたくさん集まっていました。ここに38年も病気で苦しんでいる一人の人がいます。待って待って、何か行動を起こそうとすると、人に先を越されてしまうこの人は、もうこのままで良いや、とあきらめの気持ちを持っていたかもしれません。イエス様がその人を見て声を掛けられます。「良くなりたいか」。敢えてそこをお聞きになります。この人はイエス様の言葉をどう受け止めたでしょう。7節を読んでみる絶望の中にいたこの人をイエス様の言葉がゆり動かし、もしかしたら神様からの助けが期待できるかもしれない、という思い至ったことを読み取ることが出来ます。それに対するイエス様の言葉は、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」この人は、イエス様の言葉通り、立ち上がって、歩き始めました。このような出来事は、神様の力と、それを受けて立ち上がる人間の意志とがあいまって、起きていくものなのです。
ベトザタの池は教会ではないでしょうか。障害を持った人たち、病気の人たち、罪人たちが集まってきている場所、それがベトザタの池だったのですから、教会にもそのような人たちが集められているのです。ただ、ベトザタの池だったら、水が動かないといやされなかったのだけど、新しい池、教会ではそこにイエス様の言葉が語られるとそれを受け止めた人は、活き活きと生かされて新しく歩き始めます。私たちは神を待ち望み、イエス様を救い主と受け入れるだけで良いのです。真っ先に飛び込む必要はありません。イエス様に従う時に、神様の業が行われることが私たちに見えてくるのです。わたしたちもそのような、誰もが集まれる教会になって行こうではありませんか。