2008年8月3日 塩山宗満
マルコによる福音書 15章21-38節
使徒信条を学んでいます。イエス様が苦しまれた場面はいろいろあります。聖書を読んでいくと、イエス様が孤独であったことが分かります。家族の中でも理解されずに、あるときには身内の人たちが「イエス様は気が変になった」と言われたので取り押さえに来たと書いてあります。同胞であるユダヤ人の中にいても形だけは守ろうとしていて、神様の本当の意志を汲み取ることの出来ない人たちの中で、孤独でした。宣教をしてイスラエル中を歩き回ったのに、最初の頃は話を聞く人もいたかもしれませんが、最後のエルサレムに向かう頃は弟子たちだけになっていました。
その弟子たちの中に、わずかな銀でイエス様を裏切ってしまう男がいました。あなたは、岩だ、その上に教会を建てようとまで言った、弟子に三度も自分を知らないと言われて、逃げ出されてしまいました。神の子であるはずなのに、勝利と祝福を持ってこの世に来たはずなのに全く逆の姿を見せざるを得ない、そんな苦しみの連続だったイエス様の生涯でした。
イエス様をそのように苦しめたのは誰だったでしょう。その時代にいたユダヤ人たちだけではなく、聞くべき言葉を聞かない人間は責任を免れません。私たちもイエス様を十字架へ追いやったのです。イエス様の苦しみはそのように人から加えられるだけでなく、同時に父なる神様からの裁きをその身に負っていかれました。そしてその極みが、十字架への道でした。使徒信条ではその主イエスを信じると宣言します。それだけで良いのです。