2008年12月14日 塩山宗満
ヨハネによる福音書 12章12-19節
いつもは復活祭の前の週に読まれるこの聖書の個所をクリスマスの待降節の中で読むのは、イエス様が平和の王としてこの世界に来られたことを確かめ、私たちがこれから何を望んでいけばよいのかを確かめるためなのです。
私たちは主の祈りの中で、「み国がきますように」と祈ります。こう祈るとき、イエス様はご自分の十字架と復活の出来事によって、神の国が私たちの所にきているので、私たちはそれを受け取ればよい、ということを教えてくださいました。そこで、私たちはイエス様の愛と赦しとを周りの人たちに伝えたいという願いが起こされ、私たちはその働きのために遣わされて行きます。ある人はそのために外国に伝道に行くでしょう。ある人は、家庭に戻って自分の家族のために祈り続けるでしょう。ある人は、知り合いにこの教会のことを紹介し、一緒に礼拝に来るように誘うでしょう。
私たちの回りには問題と矛盾がいろいろあります。多くの人たちがそのために傷ついて、悲しみの涙を流しています。こういう自分でありたい、こういう自分にならなければならない、と思ってもその何分の一も自分ではできない現実があって、苦しみの中に突き落とされます。だから、私たちは祈るのです。私たちは神の国が来るのを待ち望むのです。私たちはいつも祈って神様の助けを求めつづけ、イエス様が来られるように祈り、待ちつづけなければならない存在なのです。
今日も神様に「み国が来ますように」と祈りましょう。「信仰のない私をお助けください」と祈りましょう。そして、神様から愛と赦しと力を戴いて、新しい自分を見つけ出して、それぞれの場に送り出されていきましょう。家庭へ、地域へ、職場へ、学校へ。