2009年3月29日 塩山宗満
マタイによる福音書 20章20-28節
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」
杯とは何を指しているのでしょう。私たちが主の晩餐式で戴く杯を思い起こしてください。イエス様の血、イエス様の苦しみの杯です。「はい、私たちには出来ます」と答えた弟子たちに、イエスさまは、「確かにあなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と将来そのような苦しみに出会う生涯を送ることを示されました。イエス様に従うと言うことはイエス様が苦しまれたその苦しみを共に味わうと言うことが求められるのです。
この二人、ヤコブとヨハネのその後の歩みはどうだったのでしょう。ヤコブは12使徒の中で最初の殉教者になったと言われています。もう一人の兄弟ヨハネは12使徒の中でもっとも長生きをして、100歳ぐらいまでは生きたのではないかと言われています。それでは、ヨハネはイエス様の杯を飲まなかったのでしょうか。そうではありません。この厳しい、暗い時代を長い間、主イエスの弟子として生活し、規律を以って生きていくのはやはり並大抵のことではありません。
この様に、主イエスの杯は一人一人違うものなのです。神が皆さん一人一人にふさわしい杯を用意しておられるので、置かれている場でその杯を飲んでキリスト者として生きていくことが求められているのです。皆さんはイエス様の「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」という問いにどのように答えますか。
引用した聖書: コリント一11:25、使徒12:1-2