2009年11月8日 塩山宗満
マタイによる福音書 10章40節-11章1節
42節で「この小さな者」と言う言葉が出てきます。なぜ主イエスの弟子は、小さい者なのでしょうか。イエス様の弟子になった人たちは、当時財産を捨て、家族をも捨ててイエス様に従っていきました。その決断をどれほどの人たちが、よくやった、とほめてくれるのでしょうか。だいたいはその逆で、家族から、友人たちから、地域の人たちから「何を考えているのだ」と言われてしまうのではないでしょうか。弟子たちはまさに小さな者でしかありませんでした。そして、今の私たちも、この世の権力や栄光からは程遠い存在でしょう。また、クリスチャンだからと言って私たちが道徳的にも、人格的にも優れている、立派な人だと言うわけでもありません。でも、この小さいものには大事な働きが任されています。それは、神の栄光を表すために、み言葉を伝える、主イエスを語る、福音を宣べ伝える、その働きを委ねられているのです。ですから、「小さな者」とは、「主と共に生きるもの」と言うことが出来るでしょう。
その小さな者、小さいけれども主と共に生き、福音を運んでいるものに冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける、と言われます。報いとは、神による救い、また永遠のいのちという報いです。その報いである、神による救い、永遠のいのちの約束を届ける働きを担っているのです。今月の賛美歌338番「よきおとづれを語り伝え」を歌いながら、冷たい水一杯でも飲ませてくださる人、即ち福音を受け取って、神による救いにいたる人を捜し歩こうではありませんか。