2010年3月7日 塩山宗満
創世記 1章24節-2章3節
27節にはここだけで「創造」と言う言葉が3回も出てきます。この創造という言葉、1章1節にまず出てくるバーラーという言葉は神が何もないところからあるものを作り出すときに使われる聖書特有の言葉です。ということは神が人を創られたというのはこの創造物語の中で、特に強調したいところなのでしょう。
神にかたどり、神に似せて人間が特別な存在として創られた、ということは、伝統的には最初の「我々にかたどり」という言葉は人間の外の形、二本足で立って、手足を動かして働き、頭を上げて歩く、そのスタイルのことを言っていて、2番目の「我々に似せて」というのはもっと人間の内面的なこと、心や知能や理性のことを言っているのだ、と言われてきました。そうかもしれませんが、今最も私たちに納得できる説明は、人間は神を知ることができ、神と向き合って、対話ができる存在として創られている、ということでしょう。
私たちは今の自分を省みてみても、とても神に似ているなどとはいえないと言わざるを得ないのですが、でも聖書はそういっているのです。それに、自分だけでなく、私たち人間が交わりを持つときの相手にも神の似姿を見て、この人も神が創られた大事な存在なのだ、と聖書が言っているのに気が付きます。
自分の姿が神に似ているなんて思えない、人間はそのような存在になってしまっていますが、そこへイエス様が来て下さいました。私たちの罪を、ご自分で負って苦しみの道を歩いてくださったのです。イエス様の苦しみを思う受難節をみ言葉に触れながら過ごしていきましょう。
(引用聖句:マルコ1:32-34、フィリピの信徒への手紙2:1-8)