2010年3月21日 塩山宗満
創世記 3章1-24節
神が造られた園では神が人に対して、「仕事を与え、食べてよいと許可をし、大きな自由を与え、そして神に従う証しとしてのたった1本の木の実だけは食べてはいけないという小さな禁止事項、制限を設けておられる」ということを思い出してください。そのわずかばかりの制限をすら守ることができなかった人間に対して、神は裁きの言葉を述べられます。
女には16節の言葉が与えられます。「生めよ、増えよ、地に満ちよ」といわれて、家庭を作って、こどもを生んで育てることは本来は祝福であるはずなのですが、神にそむいたことによって苦しみが伴うことになってしまい、自由で対等の関係にあった男と女の関係も支配するものと支配されるものとの関係になりました。また、男には土を耕して食べ物を得る労働が義務付けられ、園のなかでは楽しみであった労働が、苦しみの元になってしまいました。そして、「ちりに過ぎないおまえは塵に返る」と言う、死への恐れが生まれました。パウロが「罪が支払う報酬は死です(ローマ6:23)」と言っている出来事が起こったのです。
けれども、イエス・キリストが来られ、この地上で生き、苦しみ、十字架にかかり、そしてよみがえって神との関係を正してくださったので、私たちは主イエスを救い主と信じることによってこの罪から解放されることが可能になりました。男と女の関係も、支配し支配されるものから、もう一度対等のお互いを信頼しあい、お互いを助け合い、家庭を作り上げ存在にもどることが許されたのです。私たちも主イエスを中心とした、お互いに赦し合い、支えあう家庭を作り上げることが出来るようになったのですから、そのように歩んでいきましょう。