2010年4月11日 塩山宗満
創世記 4章1-16節
アダムとエバのこどもたちが成長して、それぞれが収穫したものを神の前に感謝の献げものとして持ってきました。ここで、ちょっと私たちには理解ができないことがおきるのです。それは、神がアベルの持ってきたもののほうに目を留め、カインの持ってきたものは目を留められなかった、というところです。なぜ、神はそのようなことをされたのでしょうか。これについてはいろいろな解釈があり、しらべてみましたが、結局は「神が選ばれた」それだけで、その理由をさがすことは意味がない、ということのようです。「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。(出エジプト33:19)」との言葉に尽きるのです。
神の選びが、神からの一方的な恵みによってなされとするなら、選ばれた人はそれを喜んでいればよいのでしょうか。この場合のアベルの様子は何も描かれていません。アベルは当然のことをしたまでで、なにもそれによって利益を受けているわけでもありません。神に選ばれたがゆえに、かえって、殺されてしまうのです。翻って、私たちの場合を考えてみましょう。私たちもまた、自分の力で神を信じ、神の愛に触れたのではありません。主イエス・キリストの愛によって私たちは神の元に招かれ、ここにこうして神に選ばれて集まってきて礼拝をしています。神からの一方的な愛によって、恵みによってここにいるのです。ですからここに集まっている私たちは、神によって選ばれたことを感謝して、選ばれた者として、神の愛をまだ知らない人たちに伝えて行くという責任があることを心にとめておいてください。
(引用聖句:出エジプト33:19、マタイ5:21-26、Tヨハネ3:11-16)