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 Mobara Baptist Church

「『とりなす』ということ」

2011年1月2日 塩山宗満

 フィレモンへの手紙 1-25節

 もう、パウロの生活の一部と言っても良いようなオネシモを手放すのは不自由な生活をしているパウロにとっては大変なことなのですが、敢えてオネシモをフィレモンのところに送り返します。全幅の信頼を置いているフィレモンが正しい判断をして、新しくキリスト者となったオネシモのこれからのことを主の兄弟の一人としてしっかり受け止めてくれるはずだ、と判断したからなのです。当時の社会のしきたりでは逃げ出した奴隷は額に焼印を押されるか、場合によっては命を取られてしまうこともありました。そのような危険があることは承知の上で、パウロはフィレモンが主に対する愛をもってオネシモに臨むよう、必死の思いでこの手紙を書いたのです。
 このとても個人的な手紙がなぜ、聖書の中に置かれたのでしょうか。使徒パウロはオネシモを愛するあまり、とても腰を低くして、フィレモンにオネシモを受け取り、赦し、愛してやってほしいと願っています。そのとりなしの様子が、イエス様が人々のために祈られたことの具体的な形で現れたことだと思ったからなのです。そして、主イエスを愛するものはこういう形でお互いを愛し合い、支えあい、とりなしの祈りをし合ってほしいとの願いがこの手紙にはこめられているのではないでしょうか。
 皆さん、今年も私たちの教会ではこのとりなしの祈りを皆でしていきましょう。お互いに主に赦されている身ですから祈りあい、支えあい、そして神の国の広がりのために働いていこうではありませんか。


日本バプテスト連盟
茂原バプテスト教会

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牧師 塩山宗満