2011年2月6日 塩山宗満
創世記 16章1-16節
当時の習慣に従って、サライがアブラハムに自分の女奴隷を差し出して子供を得ようとしたことはいったい何が問題だったのでしょうか。それは、神の約束を信じて、従ったはずの二人がそれを待ちきれずに、自分たちで何とかしようとしたことなのです。主なる神の約束に従ってカナンにやってきたアブラハムとサライに10年間子供が与えられませんでした。それで、次の手段として、当時普通に行われていたやり方で、奴隷のハガルを差し出したのです。そこには神に対する信頼を失った、もう待ってはいられない、何とかしなければ、という思いがあります。これは間違っているのでしょうか。私には必ずしも間違っているとも思えません。神が約束されることが、私たちには信じられないようなことが多いのです。アブラハムとサラにとっては、あの歳になって、こどもが与えられるなどと言うことは常識では考えられませんでした。
また、私たちに神のみ心がはっきりと分っているならば、待つこともできるでしょう。でも、往々にして、私たちには御心が分らないときが多いのです。その場合は知恵を絞ってあらゆることを考えて、あらゆる準備をして前進していく努力をしなければなりません。
私たちにさまざまな願いが起こされ、神によってそれが実現するように導かれていきます。そのときには私たちはじっと待っている時もあるでしょうし、私たちのできることを精一杯努力してみて、それが御心にかなうかどうかを願っていくこともあるでしょう。新しい年度に何を願い、何を行っていけば良いかを皆で考えていきましょう。