2011年3月13日 塩山宗満
創世記 22章1-19節
アブラハムは神が命じられた場所に着くと、イサクを縛って薪の上にのせ、手を伸ばして刃物をとりイサクを屠ろうとします。そのとき、天から主の御使いが声をかけました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。(22:12)」神はアブラハムが神を畏れる者であることが今、分かったと言われるのです。そして、アブラハムが目をこらしてみると一匹の雄羊が木の茂みに角を引っかけてもがいていたので、それを捕まえて焼き尽くす献げ物として献げました。神はここで、小羊を備えてくださったのです。試みる神は、備えてくださる神でもあるのです。
私たちにも神からの試みがあるのでしょうか。はい、あるのではないでしょうか。皆さんのそれぞれの人生の中で神からの試みだと思われることがあるかもしれません。でも、神はそのときに備えもしてくださっていることを今日の聖書は語っています。今日の物語は、試みをされる神と備えをされる神は同じ神であって、このお話は、結局神が誠実なお方であることを語っているのです。たとえ私たちに至らないところがあっても、神はそのことの故に裁きを備えられるのではなく、神は逃れる道を備えてくださっているのです。私たちにどのような試みが降りかかってこようとも、それに耐える逃れの道を神は用意してくださっているのです。ですから、安心して、この神を信頼して、この神に従って、人生を歩んでいこうではありませんか。