2011年5月15日 塩山宗満
ルカによる福音書 12章13-34節
イエス様はここである一人の金持ちのことをお話になりました。新共同訳に翻訳された言葉には出てきていませんが、元の言葉をよく読むと、17-19節にどの節にも「私の」という言葉がついています。私の作物をしまう場所がない、私の倉を壊して、私の財産を皆しまい、私の魂によく言おうと、「私の」が繰り返されています。この金持ちは人のことなど目に入らず、自分のことだけしか見えていないのです。そして、自分の魂に「楽しめ」と言っているときに、神が今夜おまえの命は取り上げられる」と言われているのです。そして、イエス様は「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。(21節)」と締めくくられます。神の前に豊かにならないものとは与えられたものをすべて自分のものだと勘違いをしてしまう人のことを言っています。そのような人はいくら努力をしてみたところで、本当の意味で、自分を豊かにすることはできないのです。大いに富んでいる人だけではなく、少しだけ富んでいる人、いや私は貧しいと思っている人にも、このイエス様の言葉は当てはまるのです。多く持っていても少ししか持っていなくても、目の前の財産は私の財産だと、思ってしまうと、貧しいものになります。聖書は旧約の時代から一貫して私たちの収入、財産は神が与えて下さったもので、その一部は神にお返しするものだ、と繰り返し述べています。そのように、富が与えられても、それは神がお与えになったのだと言うことを知って、神に従って生きることが人生の秘訣なのです。