2012年1月15日 塩山宗満
創世記 25章19-26節
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙9:11b-13で「それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。」と記しています。 ここでは、神がある人を選ぶ時に基準は、その人が何か立派なことをしたからではなく、神のご計画によって選んでいかれるのだ、と語っています。エサウとは先に選ばれていたユダヤ人のこと、そしてヤコブとはユダヤ人からはさげすまれ、虐げられていた罪人たち、外国人たち、貧しい人たちのことです。この後、何回かヤコブについての聖書の記事を読んでいきますが、それを通してみても、ヤコブというのはあまりに勝手すぎ、わがまますぎてちょっと敬遠をしたくなる人物なのですが、そのヤコブを神は愛したと言っておられるのです。
そのことは、振り返ってみると私たちに安心感をもたらすのではないでしょうか。神の前に私たちが何かをしたので神が私たちを愛して下さるのだとすれば、私たちは神の前に立つことすら出来ないでしょう。でも、神が私たちを招いて下さっているのは、やはり神が一方的に私たちを愛して下さっているからなのです。
神の選びという、わたしたちが常識的に考えることとは明らかに違うことがここで述べられています。わたしたちの周りにはたくさんの困難なことがありますが、神は私たちの常識を越えて、それを変えてくださることを皆さんは確信を持っていて良いのです。どんな状況の中にあっても神がわたしたちと共にいてくださることをいつも覚えていてください。