2012年1月29日 塩山宗満
創世記 27章18-29節
ヤコブがだまし取ったという「祝福」とは、収穫のことが祈られ、多くの民がお前の前にひれ伏す、と祈られています。また、この「祝福」は力があって、ひとたび祈られると祈られた人にのみ与えられ、二度と他の人へは与えられないのです。祝福は、いったん語られると、その言葉が神の言葉として力を持っていて、一人一人の生き方だけでなく、社会や世代や、世の中のすべてのこと、そして世界をも変える力を持っているのだとここは語っているのです。
それにしても、神の祝福をこのような卑劣な手段で得ても良いのでしょうか。今日の聖書が語ることは、神の祝福はその祝福を受ける人の性格や行いの善し悪しに関わりなく、神の側の一方的な選びによって与えられるのだ、ということを示しています。
新約聖書の時代、イエス様の所に集まってきた人は、長子エサウのように血統が正しく、当然いろいろなものを受け取るものだと思われていたファリサイ派の人たちや律法学者ではなく、このヤコブのような罪人といわれていた徴税人、外国人、病気の人たちそのような人たちがイエス様の周りに集まり、イエス様からの祝福を受けていました。神の祝福は常識とか、仕組みとか、言い伝えとかを超えて、実に自由に飛び回って、ことをなしていくのです。その結果、思いも寄らない所へ神の祝福が行き渡るのです。そしてその神がお持ちになっている自由な選びによって、この私たちにも神の言葉が届きました。なんと感謝なことでしょう。私たちはぜひこのイエス様から戴いた祝福を私たちの次の世代に引き継いでいかなければなりません。そのために祈り続けましょう。