2015年2月15日 塩山宗満
出エジプト記 23章10-13節 (旧約 132ページ)
日曜日、主の日は礼拝から始まります。この礼拝では何が起こるのでしょうか。礼拝には神からの招きがあります。神に呼び出された人たちが集まるのです。さまざまな状況の中にあったわたしたちが、神に呼び出されて、集まっているのです。体調が悪いけれども何とか出てきたと言う人もおられるでしょうし、片付けなければいけない仕事が山のようにあるけれども、それを置いてやってきた、そんな人も皆、神が呼び集めてくださっているのです。
礼拝の中では罪の許しと解放がなされます。私たちを縛っているいろんなものから神が解き放ってくださるのです。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」とイエス様が言っておられますが、礼拝とはさまざまな私たちを縛っているものから解放されていく、そのときなのです。重荷を負っておられる方はその重荷をイエス様の前において、自由になって礼拝を喜んでください。
この呼び出されたこと、解放されることは宣教の業に招かれていることにつながります。教会の働き、その中心である主の日の礼拝の中心の一つはこの宣教です。これは、こうしてお話をしている説教者だけの働きではありません。ここに招かれている人たちすべてがこの宣教の業に召されているのです。
どうぞこの教会での主の日の礼拝を大事にし、みんなでここに集ってみ言葉を聞き、賛美をし、祈りをささげて一週間をはじめましょう。そして、ここからそれぞれが置かれている場へ、派遣されていくのです。そして、この礼拝がいつも広がりをもっていくために祈っていただきたいのです。