2020年12月13日 塩山宗満
マタイによる福音書 1章18-24節
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。(1:23)」
主イエスがわたしたちと共にいてくださるのですが、わたしたちは誰と共にいるでしょうか。その「誰か」と共にいる事が難しい今日この頃です。新型コロナに感染しない・感染させないようにすることを第一にしてしまうと、共にいることが難しくなってきます。ぜひ皆さんと一緒に、と願っている礼拝でも共にいることができない時期がありました。
共にいることは物理的に一緒にいなければならないことだけではないでしょう。共にいることはその方のことを覚え、祈り、手紙やメールで確認をしたりすることによってもできるでしょう。わたしたちの礼拝のあり方も、共に集まるのと同時に、ネット配信などの新しい方法を活用して繋がり続けることができるでしょう。さらにこの技術を使って新しい伝道の方法を見つけていくことも検討していく事が求められています。
わたしたちは家族、仕事、貧しさ、孤独、病気などいろいろな困難を抱える人たち、また信仰に見切りをつけてしまっている人たちのことを覚えて、祈り、共にいたでしょうか。わたしたち自身も同じように様々な困難や問題を抱えている一人ひとりであり、まさにイエス様から「神が共に居られるから大丈夫だよ」と声をかけられている者なのです。信仰とは疑いが一切ないような確かさ、というよりも、疑いの中にあっても信じて歩む、と言うべきものでしょう。そのような歩みの中に、主イエスは共にいてくださり、共に歩んでくださるのです。