2023年4月23日 三羽善次
ガラテヤの信徒への手紙 5章13-15節
パウロは「あなた方は自由を得るために召し出されました」と言います。わたしたちは自由を求めてやみません。その反対に不自由を嫌います。自由は生きるために欠くことの出来ないものです。
しかし、わたしたちの生活実感では様々なものに縛られて生きています。でも、最も自分を不自由にしているのは自分が自分を縛っているところにあります。自分で自分を縛っていることで、視野が狭くなり、生き方も狭くなります。パウロの言葉で言えば、肉の思いが自分を不自由にし、ゆがんだものになるのです。
これに対して自由は、わたしたち自身を縛りから解放します。キリストに救われたと言うことは、自分の内の不自由から解放されたと言うことです。しかし、このキリストにある自由は自由奔放な、気ままな自由ではありません。パウロはこの自由を肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい、と言いました。英語で自由をLibertyといいますがそれは勝ち取られた自由を指します。キリストの十字架によって与えられたのはキリスト者の自由です。この自由は隣人に仕えるためのものです。隣人の困っている状態のそばにいて、それを見て見ぬふりをする自由はありません。善きサマリア人はそういう心で隣人に仕えました。
自由にされた信仰者が仕えることは、神様に仕えることです。エジプトを脱出したイスラエルの民は神様に仕えるため、自由に礼拝するために解放されたのです。わたしたち信仰者の自由はこのように人に仕え、神に仕えるために与えられたものです。神様の自由への招きに一人一人誠実に応えていきたいと思います。