2012年7月29日 常廣澄子
ヨハネによる福音書 3章1-16節 (新約 167ページ)
とても信仰熱心でモーセの律法を厳格に守っているファリサイ派というグループに属するニコデモという立派な学者がいました。イエス様はニコデモに言われました。「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」たとえどんなに立派な地位や多くの知識があろうが、敬虔な宗教生活をしていようが、神によって新たに生まれることなくして神の国に入ることはできない、とイエス様は言われたのです。
そしてイエス様は「新しく生まれる」ということは「霊から生まれる」ことだと語られました。霊は風のようなもので目には見えません。どこから来てどこへ行くのかもわかりません。しかし神様の霊が私たちを新しくしてくださるというのです。私どもには思い出したくないような辛い体験や、惨めな失敗、恥かしい思い出など、数えきれない過去の傷がありますが、キリストの十字架を信じる時、み霊の風がこれらをきれいに洗い流してくれます。
「神はその独り子をお与えになったほどにこの世を愛された。それは人が一人も滅びないで永遠のいのちを得るためです」(ヨハネ3:16)神様はすべての人がこの真理を知ることを望んでおられます。つまり一人の人間をその魂の極みまでも愛してくださる神様の愛を信じることが「新しく生まれる」ということなのです。どんなにキリスト教の知識があったとしても神様の愛を信じて自分を委ねることをしないなら、いつまでも古い自分のままです。吹き渡る風が気持ち良いように、み霊の風を受けて生きることこそ本当に自由な「新しい生き方」です。