2012年8月12日 塩山宗満
使徒言行録 21章1-16節 (新約 255ページ)
エルサレムに行くと艱難が待っていると預言され、みんなは行かないでくれと泣いて頼みました。パウロはみんなが自分のことを愛して、心配して言っていることはよく分かっているのです。けれども、あえて、こう言います。「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。(21:13)」苦難が待っているのは分かっているけれども、神が定めて下さった使命のためなら、たとえ命を取られることがあっても、やはり行くのだとパウロは語っています。
パウロにどんなにエルサレム行きを中止するように勧めても聞いてくれないので、一同は「主の御心が行われますように」と祈って口をつぐみました。わたしたちが最終的にできることは主の祈りでも祈っているように、「御心が行われますように」と祈ることでしょう。
わたしたちもパウロのように雄々しく、強い信仰者として生きていきたいと願うのですが、現実には弱々しい、やっと前に進んでいる信仰者かもしれません。でも、パウロがなぜ強かったかを振り返ってみると、それは彼が、自分が弱い者であることを知っていたからなのです。だから、わたしたちは弱い者で、弱い信仰のままでよいのです。神がそのことをご存じで、弱いわたしたちを助けて、わたしたちを生かして下さるのです。パウロの「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(コリント二12:10)」と言う言葉を味わいましょう。