2012年9月16日 塩山宗満
列王記下 8章7-15節 (旧約 590ページ)
エリシャはアラム王ベン・ハダトの家臣ハザエルに「主は、王が必ず死ぬことをわたしに示された」と伝えます。そしてエリシャはハザエルを見つめ、泣き出しました。びっくりして「なぜ泣くのですか」と尋ねるハザエルに、エリシャは「わたしはあなたがイスラエルの人々に災いをもたらすことを知っているからです」というのです。ハザエルは王の所に戻り、王には「あなたは必ず治る、と預言者が言った」と返事をしたのですが、しばらくして、彼はこの王を殺して、自分が王になりました。ハザエルはそれから40年近くアラムの王としてその地を治め、繰り返しイスラエルを攻めて苦しめました。エリシャはそのことを見通していたのに、主が示されたことですからあえて伝えなければならなかったそのつらさが涙になったのです。
新約聖書の福音書ではイエス様は人として実に活き活きと行動をしておられます。不正に対しては怒りを持って律法学者、ファリサイ人たちと対決しておられます。ペトロが、たき火の周りで「イエスと言う人は知らない」と言った後泣きだしてしまった時、「主は振り向いてペトロを見つめられた」と記されています。ラザロが死んで悲しむ人々を前に「イエスは涙を流された」とヨハネ福音書は伝えます。
私たちも、あのエリシャのように、またイエス様のように自由に生きていくことが許されています。わたしたちも怒り、嘆き、痛みを感じ、悲しんでよいし、喜びも笑いもたくさんあってよいのです。わたしたちは信仰を「五感」で味わって、イエス様の愛を見たり、聞いたり、触ったり、味わったりしながら神を信じていくのです。ご一緒に信仰に支えられた生活を、自由に、喜びながら、泣きながら、歩んでいきましょう。