2012年11月4日 塩山宗満
マルコによる福音書 2章1-12節 (新約 63ページ)
イエスさまはこの中風の人に何も求めておられません。なぜでしょう。それは、救いというものは既に人々に用意されていて、受け取るだけになっているからなのです。この人は社会から阻害され、村八分にされていたのですが、その人がしっかり生きていくことができるように、イエスさまがしてくださったのです。罪の赦しが与えられたのであれば、この人はたとえ体の不具合が癒されなくても、生き生きと生きていくことが出来たのではないでしょうか。
2000年前なら屋根から吊りおろす熱心さも褒められるでしょうが、21世紀の今はそれでは困ります。礼拝堂が2階にある、ある教会では車椅子の人が教会にきた時に、みんなで抱え上げて、礼拝を守ります、と言っています。でも、車椅子の人にしてみれば、自分の意志で教会に行き、礼拝に自由に参加したいのです。教会はバリアフリーで、誰でも自由に出入りできる場所であってほしいのです。
ただ、そのような外側の目に見える設備を準備すればよいのではありません。ある方は、「障害者に対する心のバリアも取り除いてほしい」と言われます。このバリアは体の障害を持った人たちに対してだけではなく、年齢や、国籍や性的な指向、などといった差別を受けてしまいそうな少数の人たちに対しても取り除かれなければなりません。わたしたちは、ここに集まってこられるお一人お一人をよく見つめて、ひとりでも多くの人たちと礼拝を守っていくことが出来るようつとめたいものです。それらの方たちに神の愛が染み渡り、バプテスマへと導かれていくように祈りましょう。