2013年2月3日 塩山宗満
創世記 42章1-17節 (旧約 74ページ)
「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。(42:28b)」この言葉は一度きちんと支払ったはずの銀が自分たちの穀物の袋に入っていたのに気がついたヨセフの兄たちの言葉です。ヨセフは兄たちに出会ったとき、そのまま「ああ、兄さんたち!」と言って抱き合って涙の再会をしても良かったのに、なぜちょっと意地悪をしてシメオンを残して、次にくる時には、末の弟ベニヤミンを連れてきなさい、などと父ヤコブがいやがることを押しつけたのでしょう。ヨセフは復讐をしたかったのでしょうか。この物語を読んでいて、創世記の他のところと違うのは、「神」があまり出てこないのです。兄たちがヨセフのところへ食料を求めてきたときにも、神のことなど考えてもいなかったようです。でも、ヨセフのちょっとしたたくらみとか、銀を返すという思いがけない親切に出会うと、兄たちは20年前のあの事件のことを思い出すのです。そして罪の意識に恐れおののきます。まだ再会するまで時が満ちていないのでしょう。
今はまだ、誰も神がなさろうとしていることが理解できないのです。わたしたちにもそのようなときがあるのではないでしょうか。あるときには「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」といぶかりながら、苦しみながら神がベストの時を用意して下さるまで待たなければならない、そういう場合もあるのではないでしょうか。今がどのようなときであるか、考え、祈り、時には待ちましょう。そして、神が「今だ」と言われたときに、その御言葉に従って一気に歩みを進めていきましょう。