2013年1月27日 塩山宗満
創世記 41章37-49節 (旧約 72ページ)
ヨセフは自分が「聡明で知恵のある人物」だと思っていたわけではないでしょう。外国のイスラエルから連れてこられた、しかも奴隷で、直前まで牢に入れられていた若者なのです。それでも、神はこの若者を引っ張り出します。ファラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言い、彼を王に次ぐ宮廷の責任者に任命します。任命を宣言してから、印章のついた指輪をヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りを首にかけ、王の次に進む車にヨセフを乗せて行進をしました。仕上げはファラオによって与えられた名前と、やはり王が選んで与えた妻、アセナトでした。
しばらく後の50節をみると、ヨセフには二人の男の子が与えられています。ヨセフは、その子らにはヘブライ語の名をつけます。長男はマナセ。「神がわたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」という意味です。ヨセフに積もり積もっていた苦しみの記憶を神が忘れさせて下さったのです。次男の名前はエフライムで「神は悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった」という意味です。この名前もまた象徴的です。この後父ヤコブとその一家がエジプトに移ってくるのですが、それからイスラエルの民は増え続けて、とうとうエジプトのファラオがこれは迷惑だと思うくらいまで増えていき、それがモーセによるエジプト脱出のきっかけになっていくのです。
神のご計画が、当人たちは知らないうちに、着々と進められているのです。わたしたちにもそのような神のご計画があり、それが進められているのではないでしょうか。