2013年9月29日
詩編 121編1-8節 (旧約 767ページ)
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。(121:1-2)」。この詩人は、まず「助けて」という声を上げています。私たちは「助けて!」と叫んでよいのだ、と知らされているのです。神が私たちを見守り続けておられることを信じて、「助けて」と叫んでいるのです。
いまの私たちは、このように助けを求めることが下手なのではないでしょうか。集英社新書の中に、最近出版されたのですが、東八幡教会牧師の奥田和志さんと茂木健一郎さんが対談している一冊の本があります。その本の題が「『助けて』と言える国へ」です。奥田先生はこの本の中で、次のように述べています。「いまの社会の人は小さい頃から弱音が吐けない。「助けて」といえないのは確かです。子どもは甘えていいのに、助けてといえない、そこまで子どもを追いつめたのは大人なのです。
みなさんは誰かに助けて、と言ったことがありますか。それはどんな時でしたか。それを、誰かが、しっかり受け止めてくれたでしょうか。助けて、と言ったときには、誰かがそれを聞いて、何らかの助けをもってきてくれるのです。助けをする、と言うことはそれに答える側に何らかの痛みが生じます。本当はその痛みは避けたいのです。でも、イエス様の十字架を知っている私たちはその痛みの一部でも味わうことが求められます。そしてそれは一方通行ではなく、お互い助け、助けられ、双方通行なのです。
皆さんも「助けて」と言いましょう。そして、助け合っていこうではありませんか。