2014年3月2日 塩山宗満
出エジプト記 7章14-24節 (旧約 104ページ)
モーセとアロンが何度もファラオのところへ行って「イスラエルの民を去らせてください」と頼んでもファラオはかたくなで、そのことを聞いてはくれませんでした。けれども、一方で主なる神の「わたしはファラオの心をかたくなにする」という言葉も何度も出てきます。神ご自身がファラオの心をかたくなにされるのであればモーセがいくら頑張っても何の役にも立たないので、彼の努力は無駄なように見えます。いろいろ考えてみたのですが、結局のところは「しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。(9:16)」という神の御意志があるからなのではないでしょうか。
この旧約の言葉について使徒パウロはこのように表現しています。「神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。(ローマ9:15-17)」神がファラオをかたくなにされたのは、イスラエルの民だけでなく、全世界の人たちが主なる神を知って、あがめるようになるためなのです。モーセが神の招きを何度も断りながら、やっと受け入れたように、ファラオも神との関わりの中で神の御心を行っているのです。わたしたちも同じように、この神の御心を知って、信じて、与えられた道をご一緒に歩んで行きたいと願います。