2015年3月22日 塩山宗満
出エジプト記 34章29-35節 (旧約 152ページ)
神の言葉を語っている時はモーセの顔は光っていて、そうでない時は普通の顔だった、と今日の聖書は語ります。神の言葉を語っている時は、顔が光っている、と言うことは聞いている民も神の前に立っているのと同じような状況なのだ、恐れを持って聞いている、と言うことを示しています。神の言葉を聞くときに、すぐにはそれを理解できないかもしれませんが、聞いた神の言葉が生活をしていく中で、光になり、明るさになり、暖かさになっていくのだ、と言うことも示しています。パウロはコリントの信徒への手紙で、モーセの顔の覆いはキリストによってはずされた、キリストにあれば皆輝いているのだ、と語ります。
では、わたしたちはどんなときに輝くのでしょうか。今日証ししてくださった方も、先週の若い人も輝いていませんでしたか。そう、誰でも、神の言葉を証ししている時は輝いているのです。でも、それは教会で神の言葉が語られている時だけではないのです。わたしたちが輝く場はいろんな所にあります。仕事をしている時もそうでしょう。生活のために働いているかもしれませんが、その時でも主のために輝いている時はあるのです。子育てをしていて子どもたちをしかって、自己嫌悪に陥っている時ですら、その人は光っているのです。自宅で具合が悪い家族を助けながら生活している時も、神様から見たら、輝いて生きているのです。キリストの光の内に行うすべてのことが光っているのです。そのことを主に感謝しましょう。主が求められる働きをこの教会の皆さんが行っていけるよう祈り、行動していきましょう。