2015年12月20日 塩山宗満
マタイによる福音書 1章18-24節 (新約 1ページ)
「教会を必要としない人への福音」(W.Willimon著)という本の最後の章に次のようなことが記されていました。「教会は冒険をするよりもこれまでの世界にとどまっていようとか、成長するより、子どもの時に信じた信仰をそのまま持ち続けようとする人たちの集まりになっています。そのような人たちの集まりの中で、教会は、そして牧師は、何でも許す社会に生きる若者、生活保護の母親、孤独な高齢者、あるいはキリスト信仰とは何も考えていない弱者の支えだと決め込んで、信仰に見切りを付けてしまった人とかに何ができるのでしょう」と問いかけます。
そして、著者は年老いたアブラハムとサラが、こどもが産まれるという神の言葉を信じて待ったこと、マリアが「あなたの御心が行われますように」と信じて受け入れたことを語り、わたしたちに必要なことは神を信頼し、心を開いておくことだ、と述べます。
わたしたちの周りにも、仕事がなくて困っている人、経済的に苦しい人たち、健康上の問題を抱えている人、高齢になって孤独を感じている人たちはたくさんいます。まことの信仰とは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する(ヘブライ11:1)」ことです。信仰とは自分の持ち物ではなく、生涯をかけて味わい続けるものなのです。信仰とは疑いがいっさいないような確信というよりも、疑いのただ中にあっても信じて歩む、と言うべきものです。様々な困難の中にあっても、そのような歩みの中に主イエスは共にいてくださり、共に歩んでくださるのです。インマヌエル、共におられる主のご誕生を心からお祝いしましょう。