2017年2月12日 塩山宗満
エフェソの信徒への手紙 3章14-21節 (新約 354ページ)
「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(3:20-21)」
祈りは、感謝に行き着き、感謝は賛美になるので、祈りは神を誉め讃えることだと言うことができます。わたしたちのすべてをご存じで、そのことをおできになる神に、栄光が代々限りなくありますように、と続けられています。これは神への賛美なのですが、その間に、「教会により、また、キリスト・イエスによって、」という言葉があるのです。「キリスト・イエスによって」はまだ分かります。でも教会により栄光が代々限りなくありますように、というところでちょっと戸惑ってしまいます。教会がそんな大事な役割を果たすことができるのでしょうか。でも、この手紙は教会がどんなものであるかを教えてくれています。教会は毎週礼拝を献げています。礼拝は説教を聞くとか聖書を読むとかの場なのではありますが、何よりも神を拝み、神を賛美し、誉め讃える所なのです。また、礼拝の場では、「イエス・キリストは主である」という告白がされていきます。そこで、礼拝で神を誉め讃えることは、イエス・キリストによっていると言うことができます。
パウロがここに記した「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように。」という頌栄に教会の一員であるわたしたちも「アーメン」と唱和することができるのではないでしょうか。