2017年5月28日 塩山宗満
マタイによる福音書 5章43-48節 (新約 8ページ)
イエス様の言葉は、衝撃的でした。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(5:44b)」
マタイ5章を読んできて気がつくのは、ここに一貫して記されていることは、愛する、ということです。私たちは、敵を愛することが出来るのでしょうか。いや、そもそも、愛すると言うこと自体が難しいのです。もし人が愛することをしなかったら何をするでしょうか。自分中心の生き方を求め、他の人も自分の成功のための踏み台にしてしまう、そんな人生設計をしてしまうのではないでしょうか。ところがそうやってどれほど努力してみても、心の中はなかなか満たされません。
神が、み子イエスをわたしたちの罪のために、あがないの供え物として、この世に送り出してくださいました。わたしたちが、人も神も愛することができなかったのは、わたしたちの罪のせいでした。そこで、神はイエス・キリストを十字架に架けることによって、わたしたちの罪のためのあがないの供え物とされました。このイエス様の十字架でのあがないを通してはじめて、人間は愛とは何かを知ることができるようになったのです。主イエスが私たちを愛してくださり、それによって愛を知らされた私たちは、主イエスの愛にしたがっていくことを許されています。何も持っていない、まったく乏しい私たちが神に造られた目的に添って、祈って、愛することを憶えて歩むことによって、豊かなものに変えられていくのです。そのことを確かめて、私たちも、この茂原で、茂原バプテスト教会で神と隣人とを愛するものにされていくよう願いつつ、地域に仕える教会になっていきましょう。