2017年6月11日 塩山宗満
マタイによる福音書 6章1-8節 (新約 9ページ)
ユダヤ人社会は貧しい人が多く、貧富の差が大きかったので、「施し」をする事は富んでいる人の義務でした。でも、イエス様はその愛に基づく神への応答の行いであってもそれが神への感謝の思いから外れて人に見られるために行うのであれば、それは無意味だと言っておられます。
そこでイエス様がわたしたちに勧めておられることは、天の父に見て戴くことなのです。わたしたちはする事なす事すべて人々から評価を受けます。その評価に従ってわたしたちは自分を直していかなければならない部分も出てくるでしょう。でもイエス様はすべてを天の父にお任せしなさい、と言われます。主なる神とキリストはわたしたちをいつも見ておられ、評価されます。そうなるとわたしたちは困ってしまうことも出てきます。わたしたちは隠しておきたいことがたくさんあるのです。そうするとわたしたちは神の評価に耐えられないのではないでしょうか。その通りです。けれども、そのことを神はご承知で、あえてイエス様をこの世に送ってくださったのです。ですから、このイエス様を信じるわたしたちは父なる神との交わりの中に生きていくことを許されているのです。
4節の最後には「父が、あなたに報いてくださる。」と記されています。どのような報いがあるのでしょう。人の評価によって左右されず、主イエスを信じ、その道を歩むならば罪の赦し、神の慈愛をひしひしと感じ、見守りの内に自分のなすべきことを示され、心に平安が与えられる、それが父からの報いです。この神からの報いを戴けるよう、主イエスを信じて歩む道を選び取っていきましょう。