2018年3月11日 塩山宗満
ローマの信徒への手紙 6章1-11節 (新約 280ページ)
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けたことを。(6:3)」バプテスマを受けると言うことは、イエス・キリストの十字架の死をわたしたちも身に負うことになります。私たちがイエス様の十字架の死と共に生まれながらの古い自分に死ぬならば、主イエスの復活と同じようにわたしたちも新しい命に生きるのです。そのことを日本バプテスト連盟の信仰宣言では「バプテスマはイエス・キリストを主と信じ告白するものにのみ授けられ、罪の身が十字架に死に、復活において新しい生命にあずかることを象徴する。」と言い表しています。
バプテスマという言葉はもともと「浸める」という意味のギリシャ語バプティゾーという動詞から来ているので、私たちバプテスト教会は全身を浸めるのが、聖書が語り、イエス様も受けられたバプテスマに一番近い形だと信じており、その形を受け継いできました。私たちは浸めのバプテスマを大事にしますが、同時に、「父と、子と、聖霊の名によって授けられたバプテスマ」であれば、形にこだわらず他の教会の方たちも私たちの群にお迎えする、ということを教会として決めています。
神はありのままのわたしたちを受け入れてくださったのですから、バプテスマを受けてからはそれにふさわしい歩みをしなさいとパウロは勧めています。みんなで神が招いてくださった交わりに加わり、神の国の喜びを味わいましょう。そして、福音をこの長生郡市の人たちに伝えていく働きをご一緒に進めて行こうではありませんか。