2018年4月22日 塩山宗満
マタイによる福音書 25章31-41節 (新約 50ページ)
キリスト教は、神がこの世を完全に支配される時が来る、その時は主イエスが再びこの世にこられ全人類を裁かれる、という終末論をその教えのうちに持っています。読み続けてきた日本バプテスト連盟の信仰宣言にも「主イエス・キリストはすべてのものを新たにするために、再び来たりたもう。終末の主によって信じるものは新しい霊のからだを与えられ、救いの完成にあずかり、この世の不信はさばかれる。それ故に主イエス・キリストは私たちの希望であり、日々の信仰のわざを失望に終らせたもうことはない。」と記されています。
この最後の裁きの時に、その場におられるのは主イエス・キリストです。わたしたち人間でその裁きに耐えられるものなど一人もいないでしょう。けれども、神の裁きはイエス・キリストの十字架と復活でもう既に行われており、裁きの場はわたしたちにとって「救い」の場、希望の場になっているのです。
信仰を持った私たちにとっても死は存在しますが、もはや不安の対象ではありません。自らの死に直面するときには、主イエス・キリストに全てをゆだね、地上の生から神の命へ移される厳粛なときと思ってください。信仰を持った人の地上での生活は信仰によって義とされてはいますが、苦しみや悲しみは残されています。でも、主イエスの生涯を見て、その苦難の歩みを学んだら、私たちの苦しみはなお乗り越えていけるものではないでしょうか。
そこで私たちは与えられた人生を希望を持って歩み、死に直面したときも希望を持って乗り越えていくことが出来るのです。イエス様の支配が行われるときがくるという喜びを持って、毎日を生きて参りましょう。