2018年8月12日 塩山宗満
ヨハネによる福音書 5章31-47節 (新約173ページ)
「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。(5:36)」人間には神の姿がよく見えないのです。では、といって、父なる神は人々が神のことをよく分かるように、イエス様をこの世に送りだされたのですが、ユダヤ人たちはそのイエス様のことを怒っているのです。
そこで、イエス様はご自分の「業」が証しになっているのだと言われます。この「業」とは、イエス様がされることすべてと、イエス様のお話になった言葉のことで、イエス様が神のみ子、救い主であることを証ししています。ガリラヤの村々、町々で行っておられた宣教と癒しが明らかに神の元から送られていることを示しているのです。そして、そのことはもう誰かが幾ら説明しても理解できることではなく、イエス様の業を見て、言葉を聞いて、後は「信じるしかない」のです。信仰とは、知識を積み重ねても得られるものではなく、あるところから飛び込む、そういった部分があるのです。
聖書には、イエス様の「業」と、お話になった「言葉」が書き記され、証しされています。そして、それを読んで、わたしたちが信じていくようにイエス様は勧めておられるのです。イエス様のことが聖書にあれだけ記されていますから、わたしたちは証しする内容には困りません。また、私たちもそれぞれがイエス様に出会って導かれたことを証しすることが出来ます。そのように、導かれて、ご一緒に毎日を歩んでまいりましょう。