2018年8月26日 塩山宗満
ヨハネによる福音書 6章22-40節 (新約175ページ)
命とは生きることですから、イエス様はご自分を生きるための糧、パンだと言っておられます。聖書は、生きることを「神を知って生きるもの」と、「神に背を向けて生きるもの」の二通りの生き方があることを語っています。神は私たち人間が神とともに生きるように望んでおられるのですが、人間の側がなかなかそれに気がつきません。そこで、御子イエスを送って、神とはどんな存在かわかるようにしてくださったのです。イエス様を信じて、イエス様のところへ行きさえすれば、イエス様はその人たちに命のパンを与え、飢えることも渇くこともないようにしてくださるのです。
イエス様は「私は命のパンである」を言われます。そして、その言葉どおり、当時の弟子たちは、イエス様が命のパンであることを知って、本当の意味で生きて行くことができるようになりました。それから2000年後に生きている私たちも「イエス様は命のパンである」と記されている聖書を読み、教会の礼拝を通して生きて行く意味を知ることができるようになりました。「祈らざるを得ない状況、苦しい状況の中から聖書を読み通すことに導かれ、信じるということはこういうことかとあらためて知らされました。」とイエス様を信じることの喜びを語ってくださる方もおられます。イエス様のみ言葉を戴きながら、神に生かされていく毎日を送ろうではありませんか。
憩いの場の工事が始められました。わたしたちの教会が、ここ長生郡市、大網白里地区に命のパンであるイエスさまを示し続け、地域に仕える群れとなるように祈りつつ工事の完成を待ちましょう。