2018年10月14日 塩山宗満
ヨハネによる福音書 9章1-7節 (新約184ページ)
イエス様が道を歩いている時に、目の見えない人に出会われました。弟子たちの問い、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。(2節)」に対するイエス様の答えは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(3節)」というものでした。イエス様は、苦しみの原因と言う過去のことではなく、苦しみの目的、意味、そしてそのことにより、これからなにが起こるかを語っておられるのです。
このイエス様の言葉は身体に障害を持っておられる方たちにはとても深い慰めの言葉になっています。視覚障害のキリスト者たちの集まりであるキリスト者盲人伝道協議会(盲伝)から毎月機関紙が送られてきます。そこにはこのイエス様の言葉がどんなに支えになっているかを多くの人が証ししています。
一方、見えないことによる痛み、それも教会の中で経験する事が幾つか記されています。たとえば何かお手伝いしましょうかと言っても、座っていて良いですよ、と言われるし、掃除の時もしなくても、と言われるので、自分に何ができるか悩んでしまう、と言われます。これは、視覚障害の人だけでなく、障害を持った人たちみんなの悩みのようです。でも、教会を建て上げるためにみんなが働いていかなければなりませんから、障害を持っている人たちも、持っていない人たちもみんなで神の国を広げるための働きをして行かなくてはなりません。それが何であるかは一人ひとり違うでしょうから、その点はみんなで考えて、探していきましょう。