2019年3月24日 塩山宗満
ガラテヤの信徒への手紙 6章11-18節 (新約 350ページ)
「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」この、焼き印、という言葉は家畜などに自分のものだと言う印を押す、そのしるしのことを言っています。私たちが、神から信仰が与えられ、バプテスマを受けるということはイエスの焼き印を身に受けることなのです。神は主イエスという代価を払って私たちを買い取り、焼き印をおして自分のものとされたので、わたし達は恐れることなく、生きていくことができるのです。
ある人がこう質問します。「バプテスマを受けて焼き印を押された私たちがどんな状態になっても、その焼き印は有効なのでしょうか。」私たちは罪を赦された者、しかし依然として罪を犯す存在であることは確かです。でも、そのような私たちでも神の赦しの内に置かれているでしょう。では、全く神から離れてしまった人はどうなのでしょう。それに対しては神が判断されることで明確な答えは出せませんが、あの創世記4章に出てくる兄弟を殺してしまったカインが主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住むことになったときに、「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。(創世4:15)」とありますから、イエスの焼き印とはそのようなしるしと考えてよいのではないでしょうか。
主イエスを信じて、バプテスマを受け、焼き印を身に帯びたわたしたちは新しい歩みを与えられました。今日はこのあと総会を持って新しい年度の歩むべき方向と行うことを予算の裏付けをしながら審議していきます。主イエスの焼き印を身に帯びたわたしたちにふさわしい2019年度になるよう祈ります。