2019年3月31日 藤本政嘉
ヨハネによる福音書 15章1-10節 (新約 198ページ)
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(15:1-2)」
ちょうどぶどう園の主人がぶどうの収穫のために手入れをし、剪定するように、神は繋がっている枝に対してそうされるのだ。痛い剪定も厳しい訓練もしなければならない。
失うということは信仰生活の一つの試練である。信仰によって与えられるものもあるが、また失うこともあることを知らない者は得ることはできない。将来あなたがたは失うことがあるだろう。しかしそれは多くの実を実らせるために神がなさるのだ、とイエスは言われたのである。
枝と幹が互いにつながっているのは命が幹から枝に流れるという関係である。私たちがキリストに繋がっているということは、イエスの言葉によって、私達を清め贖ってくださった血が今日も私たちの内に注がれているということである。どんな時にもキリストに愛されているという事実に立っていくことが繋がっているということである。
掟を守るとは、み言葉に従うことである。掟を守るという具体的な生活の中で初めてキリストと命の関係になる。今日の私たちの信仰生活において欠けているのは、聞くだけでそれを実行しないことである。しかし私たちにできなくても神を信じる時に、神は手を取って実行できる者にしてくださるのである。