2019年4月7日 塩山宗満
創世記 22章1-19節 (旧約 31ページ)
創世記のこの記事を読むと「愛の神」はどこにおられるのかと思ってしまいます。約束の子を妻サラと一緒に育ててきたのに、その子を焼き尽くす捧げものにしなさいとは。それまでの苦労は無駄だったのでしょうか。そんな時、世間では「神なんかいないのだ」とか、信仰なんか持っても何の役にも立たない、と言うかもしれません。
今、私たちは受難節の時を過ごしています。4月21日の復活祭までイエス様の十字架への道を思い起こして、そのことを覚えながら過ごすときだと教会歴では言っています。新約聖書に於けるイエス様の生涯を思い起こしてみましょう。父なる神はこの時、アブラハムの気持ちと同じだったのではないでしょうか。「自分の独り子である息子すら惜しまなかったので」とアブラハムに言われた神は、ご自分の独り子を十字架の上で死なせてしまうことになったのです。一方、ゲッセマネの園で祈られたイエス様は十字架への道を選び取らなければならないという苦しみの中におられました。その苦しみの中で、イエス様はただ「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。(マルコ14:36)」と祈られました。その祈りを聞いた父なる神はイエス様がただ、約束を信じ、その道に歩んでいこうとしておられることを知られました。そして、十字架という試みはあるけれども、その先に復活という備えがされていたのです。どちらも私たち人間の理性を超えた神のみ業が行われました。わたしたちもこの神に信頼して人生を歩んでいこうではありませんか。