2022年9月25日 三羽善次
マタイによる福音書 26章36‐42節
主イエスのゲッセマネの祈りの姿と、その言葉がここに記されています。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」(39節)主イエスはここで、ひれ伏して神様に自分を投げ出すようにして祈られたのです。
祈りの前半は人間の願いを訴えていますが、後に続く祈りは、神様にすべてを委ねられる主イエスの御姿を、私たちに示しています。私たちの神様への祈りは、その大半が自分本位の願い事ではないでしょうか。
しかし、主イエス様は生ける神様に信じ、従うことに徹して、神のみ心に委ねる祈りをされました。それは、父なる神様にご自分が受け入れられ愛されているという本当の安心感、平安があったからです。
安心感とか平安というものは、私たちの人生、暮らしに欠かせない重要な要素です。生まれてきた赤ちゃんは母親に全幅の信頼を寄せ、安心の内に健やかに成長します。また私たちが自然の中で癒されるのも、自然に自分を委ねているところから来ます。詩編55:23の言葉、「あなたの重荷を主に委ねよ」という言葉は、委ねるとき、平安が与えられ神への祈りが真実なものになります。
私たち信仰者の人生は、自分で自分の道を選んでいるように見えて、実は生ける神様の思し召し、神に呼ばれて生かされ、導かれてここまで来たのではないでしょうか。主イエスの祈りに続く者として召されていることを新たにさせて頂きましょう。