2022年11月20日 井形英絵
マタイによる福音書 9章35-38節
今日与えられられているマタイ9章35〜38節の中から、まずイエスの思いを知りたいと思います。36節、イエスが「深く憐れまれた」、という言葉は、かわいそうに、という同情を超えています。元の言葉では腸がちぎれるほどの、断腸の思いという強い言葉です。
この断腸の思いは神の愛と義につながっています。神は人をかけがえのない存在として創造され、いのちを支えて下さっています。イエスは、神が人に届こうとしているのに、その関係には入れないと言われ、また差別と貧しさと病と不安定な環境に置かれ続けている人々に対して、断腸の思いに駆られたのだと思います。神の思いを受けて、イエスは出会い、教え、神の国を伝え、苦しみが取り除かれる働きをして行ったのです。(35節)。私たちの宣教の営みを支えるのはこのイエスの憐れみだと思います。私たちはイエスではありません。だからイエスの深い憐れみに触れ続けます。決して高慢ではない憐れみに。行動が伴うイエスの憐れみに。
35節の中で教会へのチャレンジは、「町や村を残らず回って」ではないでしょうか。イエスは出かけていって人々の現実を、苦しんでいる人々の実情に触れて行きました。人々にとってはその関係こそがよき知らせであり、喜びだったのではないでしょうか。私たちにとって「残らず回る」とはどのようなことでしょう。
人々のニーズは莫大であり、苦しみが切迫しています。自分たちの力だけでは途方に暮れることもあります。主イエスは言ってくださいます。イエスの憐れみに連なる働き手を送ってくださるよう願いなさいと。共に神の国を伝え生きる働き手を求めつつ、私たち一人ひとりが主イエスの憐れみにつなげられて、イエスの宣教の部分になれたらと願います。