2024年2月11日 塩山宗満
ヨハネによる福音書 9章1-12節
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(9:3)」弟子たちの問いに対するイエス様の答えは、この人がなぜ見えないか、過去に誰が何かをしたからか、という原因には全く触れずに、これからこの人に新しい展開、新しい人生が始まるのだ、と言っておられるのです。
この生まれつき目の見えない人のことを振り返ってみましょう。イエス様に言われて、彼はシロアムの池にいって目を洗い、そして見えるようになりました。このことはわたしたちにとっては、遣わされた者、すなわちイエス様が示される道に従っていき、バプテスマを受けると新しい人生が展開されるのだ、と言うことを示しています。
わたしたちにもいわれのない苦しみが時々襲ってきます。なぜこの苦しみに会うのか分からないこともたくさんあります。分からないことの方が多いかもしれません。障害などによる苦しみや苦労の殆どが、その理由など分かりません。イエス様はそのような一人ひとりの苦しみに対して、なぜ、と原因を問うよりも、そのことが神の栄光を表すために、と神の御心を示されました。今のわたしたちが苦しみを乗り越えるのには、こうして、聖書を読みながら、賛美歌を歌いながら、お祈りをしながら神に出会い続けることが求められているのです。どうか皆さんご一緒に、礼拝に出続けて、神に会いつづけて、神の栄光をあらわす働きに加わっていくことでしょう。私たちの周りの様々な違いを持った人たちと共に礼拝にあずかり、共に宣教の業に加わって行こうではありませんか。