2024年11月3日 塩山宗満
創世記 4章1-16節
神の選びが、神からの一方的な恵みによってなされたとするなら、選ばれた人はそれを喜んでいればよいのでしょうか。私たちもまた、自分の力で神を信じ、神の愛に触れたのではありません。主イエス・キリストの愛によって私たちは神の元に招かれ、ここにこうして集まってきて礼拝を献げています。
今日は召天者記念礼拝で、多くの信仰の先輩たちの写真に囲まれて礼拝を守っております。この方たちも主なる神が選んでくださり、その生涯を主と共に歩み、そして今も主と共におられる方たちです。なぜ神がこの方たちを選ばれたのかは分かりません。ただ、神が選ばれたからなのです。結局、「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。(出エジプト33:19)」とのみ言葉に尽きるのではないでしょうか。
この礼拝にお出でになっている皆さんも、主が招いておられる、主なる神が選んでおられる方たちなのです。なぜわたしたちが選ばれたかは分かりません。でもこれは何という恵みでしょう。何という祝福でしょう。
すでに召された方々は、聖書から読み取っていくと、神が備えてくださった住処が用意されていて、そこにおられ、神の御側におられるのです。私たちはこのように、信仰の先輩たちに囲まれて、この世での歩みを進めているのです。この先輩方の信仰を、こうして私も含めて皆さんが引き継いで、この教会の歩みを進めています。わたしたちもいずれ、この方たちの群れに加えられるのです。私たちも見えるものにではなく、見えないものに目を注いで、神が示されるときが来るまで、ご一緒に神の国のために働いて行こうではありませんか。