2024年10月27日 三羽善次
ルカによる福音書 18章9-14節
わたしたち人間は、飾って生きています。よそ行きの服を来て着飾るとか、お化粧をするのも飾っていると言えるでしょう。これは人間以外の生き物はしない事です。
神殿の前で祈る二人の人物が出てきます。ファリサイ派の人は、まさに自分を飾るようにして祈ります。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。
彼は自信に満ちた、そして他の人を軽蔑したようなお祈りをしました。自慢のレベルを超えて、高慢で鼻持ちならないとしか聞こえない祈りです。ここには、自分は正しい人間として生きているという誇りが感じられます。それだけでなく他者を見下す気持ちが表れています。
ところが、これに対して徴税人の姿はその対極にあるものです。彼は自分を一切飾りません。ありのままの自分をさらけ出すようにして祈ります。聖書には次のように語られています。
「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』(13節)」
ここには、自分とほかの人を比較したり、正しい者と認められたいという承認欲求などまったく見られません。彼はそういう自尊心などかなぐり捨てて、神様の御前に、罪人の自分を投げ出したのです。
主イエスは言われました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14a節)
私たち信仰者の人生も、神様に「それで良し」とされ、自分自身も「私の人生、これで良し」と言える信仰の王道を、一人一人まっすぐに、そして兄弟たちと共に歩んで行きたいと思います。