2025年3月16日 塩山宗満
マタイによる福音書 21章12-17節
イエス様が乱暴にも見えるエルサレム神殿でなさったこと、「宮清め」を通して、形ではなく、真の礼拝を求められたことを今日の聖書は語っています。真の礼拝を献げたい人たちは、喜んで会堂に集まってきます。
どうしてみんな礼拝に集まってくるのでしょう。それは、私たちが礼拝をする群れだからです。教会が同じ考えの同じ信仰の人たちだけの集まりではなく、「入り混じった人たちの群れ」、信じる人も、信じていない人も、自由な人も不自由な人も、笑っている人も泣いている人も、疲れている人も、元気な人も、重荷を負っている人も、障害を持っている人も、外国人も、誰もが集まってくるところだからなのです。教会の礼拝に身を置いて、共に神の言葉を聞いて慰められ、力づけられ、共にその慰めに感謝をして賛美歌を歌い、祈ることができるからなのです。
礼拝をする教会は、同時に宣教をする教会、教育をする教会でもあります。新約聖書が示すキリスト教の礼拝はその本質として、外に広がっていこうとする力を持っています。教会の全ての働きはこの宣教の業を指し示していて、教会が教会であり続けるためには教会の外の人たちに対して語り続け、新しく訪ねてくる人たちを積極的に迎え入れる働きを続けるのです。
イエス様は神殿が真の礼拝をするために用いられなければならない、と宮清めをされたように、私たちも真の礼拝をささげていきたいと願います。服部先生を先頭に2025年度の歩みを、礼拝を大切にしながら進めて参りましょう。そして、ここで、一人でも多くの人たちがイエス様を信じて、新しい歩みに進まれるよう祈っていきましょう。