2012年4月22日 塩山宗満
マタイによる福音書 13章10-17節 (新約 24ページ)
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。(13:16)」
わたしたちは神の国の言葉を理解するのがとても下手かもしれません。聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない人間かもしれません。けれども、同時に、「あなた方は見ているから幸いだ」といわれる幸いな経験もしているのではないでしょうか。わたしの8年間の牧師としての経験を通して、わたしはどんなに皆さんが神の言葉を聞いて、理解する時も、理解できない時も、幸いだ、と言う経験をしてこられたかを見てきました。わたしたちはいろいろな課題や問題にぶつかっているし、これからも新しい問題が出てくるでしょう。でも、このような問題にぶつかった皆さんが苦しみながらも、悲しみながらも、それを受け止めて、神の言葉のうちに生きていこうとしておられるのをはっきりと見せられています。
わたしたちは「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ものであるかもしれません。でもイエス様はそう言いながら、わたしたちを「み言葉を聞いて信じるもの、見ていて、聞いていて幸いなもの」としてくださるという確信が与えられているのです。イエス様がしっかりと受け止めておいてくださるので、安心してイエス様にお任せして、わたしたちに与えられた人生を歩んでいけばよいのだ、と言う平安が与えられているのです。これからも、毎週、礼拝を通して神の言葉に触れ続け、み言葉が実っていくように願い続けていこうではありませんか。