2013年6月23日 塩山宗満
ルカによる福音書 19章41-48節 (新約 148ページ)
「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。(19:46)」とイエス様が言われたのは、単に両替商を追い出し、鳩を売るものを追い立てるためだけではありません。この人たちも、もとはと言えば、神の前に清いものを整え、良い献げものを献げるために働いていたのです。でもイエス様は、神を礼拝する、と言うことはそのように形を整えることとは本質的に違うのだ、と言っておられるのです。礼拝とは形ではなく、神を神とあがめ、真摯に向き合って心から神の言葉を聞き、それに応えた生き方をしていく、そのようなことだと言っておられるのです。
今日の聖書のイエス様は、泣いたり怒ったり、とても人間的です。今日の厳しい御言葉は、当時のエルサレムにいて、イエス様を結局十字架に付けてしまったユダヤ人たちに対して語られているように見えます。けれども、イエス様の怒り、嘆きは、救いが目の前に置かれているのにそれに気がつかないで見過ごしてしまう私たちにも語られているのです。イエス様は今日の私たちのためにも泣き、怒っておられるのです。わたしたちも御利益を求めるのではない礼拝、率直に神の言葉と向き合う礼拝をしていきましょう。今日のみ言葉を読んで、私はまず牧師が真剣にみ言葉と向き合って行かなければならないことを再認識させられました。私たちも毎週の礼拝が「祈りの家」としての礼拝になっているか、いつも確かめながら聖書を読み、賛美歌を歌い、祈っていきたいと願います。