2013年9月1日 塩山宗満
ルツ記 1章16節-2章3節 (旧約 270ページ)
私たちが出会う悩みとか苦しみはどこからくるのでしょうか。ここで、ナオミは、「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。(1:20b)」と言って、神がわたしに罰をくだしたのだ、と述べていますし、伝統的なユダヤ教の解釈でも、エビメレクと息子たちが死んだのは、飢饉だからといって自分の民と神を捨てて異邦の地へ行ったからだ、とされているようです。
大船渡市の開業医で、「新約聖書」の「気仙語訳」で有名な山浦玄嗣先生が、「『なぜ』と問わない」という本の中でこう述べておられます。震災の翌日から診療を続けていて、多くの悩み、痛みを聞いて、一緒に涙を流したけど、少し落ち着くと、先生の所にテレビ、新聞、雑誌の記者たちが取材に殺到して、ほとんど同じ質問をしたというのです。「こういう実直で勤勉で立派な人々が、なぜこんな目に遭わなければならないのか。神様や仏様はこういう人たちを一体何故こんな目に遭わせるのでしょうか?」。先生の言葉。「私は、あの惨害のさなかに、何千人という気仙の人間を診ました。けれども、『なして、おらア、こんたな目に遭わねァばなんねんだべ』という恨み言を聞いたことはただの一度もありません。」
東京の人たちが言いたいのは、「お前たちが拝んでいる神様、仏様は、お前たちを見捨てたではないか」という非難めいた問いかけだが、なぜと問う意味はない、ただ一緒にいて、共に喜び、共に泣けばいいのだ、と先生は言われます。私たちもナオミの苦しみがなぜか、と問うよりも、苦しんでいる人、泣いている人たちと共にいることを選びましょう。